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Good Ole Boy の 「サンディエゴの歴史」
(2002年10月11日)

サンディエゴのマグロ漁業、 その栄光と盛衰
寿司にマグロはつきものですが ....
今、サンディエゴには日本食の寿司レストラン、特にスシ・バーと呼ばれるカウンター方式のあるレストランは、ゆうに 50 軒は超えます。これほどまでにアメリカの食文化に馴染み、市民権を得ている日本の食べ物は他にあまりありません。最近ではそれだけにとどまらず、カリフォルニアで発明(?)されたカリフォルニア・ロール、歌舞伎ロール、
レインボー・ロールなどといった、いわゆる伝統的なすしメニューには無かったメニューが大変好まれて、有名になっています。
やはり握り寿司のネタはマグロがピカ一で、もちろんトロもあります。一昔前まで、握り寿司のタネに出来る良質のマグロは日本からの輸入物がほとんどでしたが、最近は、職人さんに聞くと世界各地から入っているようです。
寿司に限らず、最近、健康指向の食生活がかなり普及したアメリカでは、マグロの人気は非常に高く、ツナ・サンドイッチ、ツナ・サラダ、ツナ・ステーキとマグロを使った料理が幅を利かせています。スーパーマーケットに行くと、マグロの缶ずめが沢山売られています。
サンディエゴの歴史にはこんな現代を先取りしたかのように、マグロ漁業の盛んな、世界でも屈指のマグロ漁港としての歴史がありました。でもなぜ、今日ではその痕跡しかないのか、その栄枯盛衰の歴史を調べて見ました。
マグロ漁の始まり
1850年にサンディエゴ市が設立され、1870年 〜 1880年代にサンディエゴの土地ブームが起きて、サンディエゴ市が大発展を遂げました。そんな発展を底辺でになった人々の一部は、多分中国から来た多くの移民達でした。その一部の人達は自分達でジャンク船を造って漁業を始め、サンディエゴでの消費のためにマグロ漁も始めたようです。
そのうちにカリフォルニア州では、あまりに増え過ぎた中国からの移民と他の人達との間で何度もいさかいが起こり、中国移民を10年間禁止する中国人排斥法が1882年に成立しました。更に1888年に出来た「Scott Act」により、いったん出国した中国人の再入国が出来なくなり、実質的に、需要はあるのにマグロ漁が出来なくなりました。
それに代わってマグロ漁をやり始めたのがポルトガルやイタリーからの移民達でした。1910年頃になると以前にはあまり食べられなかったマグロの消費が大きく伸びて、サンディエゴに缶ずめ会社がオープンするほどになりました。伝統的にマグロを良く食べていたポルトガルやイタリーからの人達によって、
サンディエゴを基地にする遠洋航海のマグロ漁が徐々に確立されて行きました。
第二次大戦前後
初期の漁法は一本釣りです。生餌のアンチョビーやサーディーンを漁場に持っていって、マグロのいそうな場所にまいては、集まってくるマグロを釣る方法です。主な漁場は、サンディエゴからメキシコ半島のカボサンルーカスの沖合いや、遠くは南太平洋のガラパゴス島辺りまでも出かけました。
当時は今のような魚群探知機や無線電話などはありませんから、手探りの経験や感が頼りの漁でした。南太平洋ではマグロの回遊する場所にはネズミイルカ(ポーポス)やマイルカ(ドルフィン)も一緒にいることが多いため、これも大きな目印の一つでした。
皮肉なことに、この目印のイルカがサンディエゴのマグロ漁業を衰退に導く一つの原因になったのです。
1937年には 100 隻もの船がサンディエゴを基地にしていました。当時のマグロ漁は、基本的には行き当たりばったり、手探りや感の勝負ですから、他の船の情報は大変貴重だったようです。これらの船は、通信手段にモールス信号無線機を使っていてました。
ですから仲間の船同士は何処でマグロが良く獲れたとか、生餌のアンチョビーは何処がいいとか、秘密を守るために、暗号化したモールス信号を使って交信したということです。
各船には免許を持った無線通信士が乗り込んで通信をこなしていましたが、経験を積んだ通信士は、幾つか違う暗号を解読できる能力に習熟していました。熟練した通信士の乗ったマグロ漁船はそれだけ成績が良かったことになります。
1941年12月7日、日本軍の真珠湾攻撃によって日本とアメリカは戦争に突入しました。サンディエゴは海軍の基地ですから、多くのマグロ漁船は軍用に徴発されて、一時的にマグロ漁は低下せざるを得ない時期があったのです。
需要が伸びて最盛期になったが、制約が出始める
戦争が終結して、1950年にはサンディエゴ港を基地にするマグロ漁船は 200 隻にもなりました。そして 6 軒もの缶詰会社が操業していました。この頃はあまり問題もなく、マグロ漁の最盛期でした。
しかしながら日本の経済復興に伴って、日本でのマグロ漁業が活発になり、缶詰も大量に生産され輸出され始めたため、
工賃の高いサンディエゴの缶詰会社はたちまち立ち行かなくなって、1960年にはたった1軒がやっと操業している状態になってしまいました。
アメリカのバンブルビーとかスターキストとかという大手の缶詰会社は、工賃の安いアメリカン・サモアとかシンガポール、あるいはフィリピンとかに工場を移してしまったのです。それでもサンディエゴを基地にするツナ・ボートの数ははあまり低下せず、
南太平洋に出漁しては、サンディエゴに持ち帰る代わりに出先の缶詰工場に卸していたわけです。
更に困難が押し寄せる
一方、1946年に国際捕鯨取締条約が締結されて捕鯨が制限され始め、ヨーロッパでは大量に使われていたアザラシの毛皮の輸入が禁止になったりし始めました。1960年の終わり頃からグリーンピースなどの環境活動家や動物愛護団体などの声が世界に高まり、
海洋生哺乳動物の保護活動がより活発になりました。1976年には南氷洋や北洋などの捕鯨が禁止になりました。
アメリカでは一方、1972年に海洋生哺乳動物保護法(Marine Mammal Protection Act)が制定されました。アメリカでの捕鯨はすでに1940年には中止されていましたので、イルカやアザラシへの保護が強まったのです。
先にも述べましたが、南太平洋のマグロの群れにはドルフィンがいつも一緒です。そしてマグロ漁の方法も一本釣りからはえ縄へ、そして大型ナイロン・ネットへと変わりましたが、大型ネットでの大量捕獲はマグロと一緒にいるドルフィンをも大量に撒き込んでしまいます。
時々水面に出ての空気呼吸が必要なイルカは網に取り込まれて窒息死してしまうのです。
アメリカ政府もマグロ漁業界に補助金を出しては、イルカを救助する方法を検討実施させたり、保護法の施工を延ばしたりしました。そしてマグロ漁業界の必死の努力で、1976年から1986年の間に、マグロ漁で殺されるイルカの数は 10 分の 1 以下にまで低下しましたが、しかし、ブレーキをかける力は益々強まり、コスト高になってきました。
更にはエル・ニーニョの影響で漁場が変わったり、漁獲量が減ったりと、次々に難題が持ち上がり続けました。
これに耐えられなくなった多くの船主は、事業を売却したり、止めたり、あるいは基地をアメリカン・サモアやシンガポールに移してしまったりしました。それでも1990年1月には、サンディエゴ港はまだ30隻もの大型マグロ漁船のホームでした。
最後のノック・アウト
1990年4月、世界的に沸き返る環境活動の圧力に耐えられなくなったアメリカの缶詰会社、スターキスト、バンブル・ビー、そしてチキン・オブ・ザ・シーは、いわゆる「ドルフィン・セイフ・ツナ」、すなわちイルカを1匹も殺さずに捕獲したマグロのみを購入するという合意をせざるを得なくなったのです。
実質的に事業が成り立たなくなりました。そして30隻いた船はたった8隻になってしまいました。
そして今では、これらの船も、その基地をガム島やアメリカン・サモアに移してしまい、サンディエゴ港には完全に1隻もいなくなりました。
でも興味あることは、それ等の船の船長やその幹部、そしてその家族達は今でもサンディエゴに住んでいるということです。そして漁期には、自宅からサンディエゴ港まで行くかわりに、サンディエゴ飛行場まで行くということです。飛行機に乗ってサモアに行くために。
それでもアメリカ人達は、今日もお構いなしにツナ・サラダやツナ・サンドイッチ、ツナ・ステーキを注文しています。おそらく環境活動家の人達も一緒に ...。
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