Good Ole Boy の
「サンディエゴの歴史」

(2002年10月11日)

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チャールス・リンドバーグ、空の先駆者

翼よ、あれがパリの灯だ!

1957年に作られた映画、ビリー・ワイルダー監督、ジェームス・スチュワート主演の、「翼よ、あれがパリの灯だ!」を見た方もいると思います。 1927年、ニューヨーク・パリ間の 3,610 マイルを 33 時間半で飛び、世界で最初の単独大西洋横断飛行に成功した、チャールス・A・リンドバーグの物語ですね。

サンディエゴはその飛行機 「Spirit of St. Louis」 号を造った会社 Ryan Aeronautical Company of San Diego があった場所であり、 現在のサンディエゴ国際空港がその場所です。これを記念して、サンディエゴ国際空港は別名 「リンドバーグ空港」 と呼ばれています。 第2ターミナルには 「Spirit of St. Louis」 号の実物模型が飾られており、第3ターミナルの壁面にはチャールス・リンドバーグの姿が大きく描かれています。

1902年、ミネソタ州の牧場に生まれたチャールス・リンドバーグは、子供の頃牧場の上を飛んだ飛行機に魅せられ、わき目もふらずにパイロット訓練所で勉強して飛行機のパイロットになり、 その後、エア・メールのパイロットをしながら腕を磨いていました。ライト兄弟がノース・カロライナ州、キティーホークの広い砂浜で最初のエンジン駆動の飛行機を飛ばしたのが1903年です。 それからめざましい勢いで航空機技術が進みました。1919年にニューヨークのホテル・オーナーが、飛行機による大西洋横断の成功者に$25,000の懸賞金を出していましたが、 なかなかこれに成功する人はいませんでした。

パイロットとしての自信をつけたリンドバーグは、支持者を募り大西洋横断飛行に挑む事にしました。当時サンディエゴで飛行機を作り始めていたライアン社を知った彼は、 ライアン社に泊まり込みで飛行機の設計をし、特別仕様の金属製機体に 223 馬力単発エンジンを付けた飛行機ををつくりあげました。この飛行機の設計を見ると、まさに大西洋横断専用機です。 リンドバーグはその費用としてライアン社に$10,580 払いました。

出来る限り飛ぶに必要な、積めるだけ積んだ451ガロンの燃料と大量のエンジン・オイルの他は何も無く、車輪のブレーキや前方確認の窓もなく、パラシュートやラジオさえ携帯しませんでした。持ち込んだものは飲み水少しと 5 個のサンドイッチ、それだけです。 「パリにつけば食べ物はいっぱいあるよ。だからこれだけでいいのさ。もし着けなかったらその時ももう必要が無いからね。」 とこんな言葉を残して、 1927年5月20日ニューヨーク、ロングアイランドのルーズベルト飛行場を後に、東に向かって飛び立ちました。


殺風景なコクピット

リンドバーグと愛機

ジェームス・スチュアート演ずるリンドバーグが操縦する単発機は、 積みすぎるほど積んだ燃料の重さでうまく飛び立てず、何回も何回も滑走しながら地面に車輪をぶつけてはその反動で飛び上がろうとしているシーンは、本当に手に汗握るシーンでした。覚えていますか?

途中の霧に苦しめられましたがやっとアイルランドの陸地を確かめると、南に進路を取って英仏海峡を横切りフランスのパリ、ル・ボルジュ空港に着陸しました。すでに夜の10時になっていましたが、大観衆が待ち受け、世界の勇者を熱狂的に歓迎しました。

「Spirit of St. Louis」 号

リンドバーグが大西洋横断に使った単発機は、サンディエゴにあった小さいライアン社がリンドバーグと一緒に設計して造ったものです。機体には最新型の 223 馬力のエンジン、燃料、エンジンオイルのみを積み、そのために全ての余分な重量を取り払い、 その分多くの燃料を積むために努力をした設計です。4,200マイルの飛行が可能にしてありましが、パイロットは1人しか乗れません。それでもニューヨーク・パリ間の飛行距離の実際と設計飛行航続距離とのマージンが16%しかありませんので、一歩間違って方角をたがえたら燃料不足でになるという、きわどいチャレンジです。


サンディエゴ空港に展示の Spirit of St. Louis 号複製

この飛行機は翼のスパンが 14m、機体長が 8m、機体高が 3m、総重量が 2,330kgという、翼のかなり長いものになっています。実物はスミソニアン航空博物館に展示されているので見る事ができます。スピリット・オブ・セントルイスという名前は、大西洋横断を支えた協力者達のいる街、 ミズーリ州セントルイスを記念して名ずけられました。

その後のリンドバーグ

チャールス・リンドバーグは一躍世界的な有名人なりましたが、その後長男を身の代金目的に誘拐され、不幸にあっています。しかし、大西洋横断成功の社会的な影響は大変大きく、それまで不安に思われていた飛行機産業がブームになり、航空業界の発展に大きく貢献しました。 また後の TWA 航空会社の創立にかかわったり、発言が反戦的な言動と誤解されて非難されたり、太平洋戦争にパイロットとして参戦したりしました。 環境問題にも理解が深く、晩年はハワイのマウイ島に住み、1974年、その生涯を閉じました。


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