Good Ole Boy の
「サンディエゴの歴史」

(2002年10月11日)

Lightbar

サンディエゴの日系アメリカ人

日本人移民の始まり

日本から海外に向けて移住したり移民したりする事は、歴史的には比較的新しい出来事です。幕末の有名なジョン・万次郎は、船の難破によってアメリカの捕鯨船に救われてはじめてアメリカに渡ったもので、 移民ではありません。

移民あるいは出稼ぎ労働者としての始めは、明治維新(1868年)の150人がハワイに行った事に始まりました。1869年にはオランダ商人エドワード・スネール(会津藩軍事顧問、松平武兵衛の日本名もある)に連れられた福島会津藩の40人が、 カリフォルニア州コロマ(州都、サクラメントの東40マイル)に「若松コロニー」と呼ばれる、茶と絹の生産で農業定住地を設立するために渡米しました。コロマは1848年、カリフォルニアで最初に金が発見されて金鉱ブームに火をつけた場所です。

しかしこれらは正式な日本国政府の管理下で行われたものではなく、組織的なサポートもなく失敗に終わっています。その後1885年に正式な明治政府の許可の元にハワイに向けた移民が始まりました。 しかし当時のハワイはアメリカ合衆国ではなく、まだハワイ王国でした。

当時カリフォルニア州を中心にした西部では、増え過ぎた中国からの労働移民を中断する中国人排斥法が1882年に成立し、その代わりに、日本からの移民が受け入れられ始めました。しかし、その後アメリカにおけるアジア人の急増に危機感が持たれ、 カリフォルニア州議会では、幾つかの労働組合の積極的なロビー活動に支えられて、再三に渡って日本人土地所有禁止法が造られようとしました。そして大統領によって阻止もされました。しかし最後には日本人の土地所有のみならず借地まで禁止する法律が出来、ワシントンでもついに、 日本人を標的にしたといわれている新しい移民条項が採択されて、日本からの移民は1924年には完全に中止されました。

このようにしてアメリカ合衆国に移民した日本人にはアメリカ国籍が与えられず、アメリカの地で生まれたその子供達、すなわち二世にしかアメリカの市民権が与えられませんでした。当時有効であった1790年に制定された移民法は、いわゆる「白人」のみがアメリカ市民になれる規則で、黒人奴隷制を持っていた当時の規則でした。 移民一世に対するこのような屈辱的なやり方が改められたのは、やっと1952年になって新しい移民法が出来てからです。

第二次大戦時下の苦難

カリフォルニア州の南部は特徴的な気候もあり、移民をして来た日本人の多くは花や植木、野菜を作る農園で働き、あるいは漁師も居ましたが、子供達には出来るだけ高い教育を受けさせて、医者になる二世の子供達も出始めました。

しかし突然、サンディエゴに住む日系人社会に激震が走りました。それは1941年12月7日、日本軍の真珠湾攻撃による日米開戦でした。それまでは色々な制約があってもそれなりに安定した生活を築いてきた日系人達に、思っても居なかった大きな不幸が襲ったのです。

サンディエゴを含む南カリフォルニアでは、真珠湾攻撃の翌日には日系人の主要メンバーと見られた人々は、早々にFBIに連行され拘束されました。そして夕方までには日系人の夜間外出禁止令が出て、夕方8時より翌朝6時までは外出が禁止されました。

もちろんこれだけでは終わりようもありません。銀行に貯めた資産が凍結されたり、保険が強制的に解約されたりしはじめ、サンディエゴ市議会においても「敵国外国人(日系人)をこのまま放っておくつもりなのか」というような議論も出始めました。 FBIに拘束された数百人の一世日系リーダー達は更に汽車に乗せられて、ノース・ダコタ州の捕虜収容所に送られたのです。このように、全ての日系人や日本人の血を引く全ての市民を西海岸の各州から内陸部に移すべきとの声が高まり、ルーズベルト大統領は日系敵国外国人とその血縁者を隔離する大統領令に署名しました。

1942年2月24日、真珠湾攻撃から2ヶ月半後、サンディエゴ地区陸軍司令官命に依り、翌日夜半までに指定されたサンディエゴ中心地区から、全ての日系人が強制的に立ち退くべく厳命が出されました。更に3月4日にはデウイット陸軍大将命で、全ての日系人とその血縁者はアリゾナ州、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州の 西海岸諸州から立ち退くべきとの強制命令が出ました。当時すでにアメリカと戦争状態にあったドイツとイタリアからの移民はこの限りではありませんでしたから、日系人のみを対象にした処置でした。

このようにして、言ってみれば二つの祖国の板挟みになって、それまで築いた全ての財産、名誉、地位その他全てを犠牲にする事を強いられて、全ての日系人とその血縁者達は収容所に移動させられました。サンディエゴ地区からは約2,000人の日系人が強制移動させられて、その多くは、アリゾナ州のコロラド川沿いにあるインディアン・リザベーション地区のPostonに送られました。 これらの強制収容キャンプは13個所に上りますが、全部で12万人以上の日系人が収容されました。

終戦を迎え1946年に収容所キャンプが閉鎖されるまで、キャンプの生活は不便を極めました。収容所が閉鎖されて開放されても、すでに土地や財産を失った行く場所もない大勢の人々の苦労は大変なものでした。本稿では詳細に触れませんが、機会があれば書いてみたいと思います。

米国におけるその後の反省

1952年に移民法が改正されて、苦労した日系一世達にアメリカ市民になれる道が開かれました。その後民権運動に支えられて、政府も自国の市民を強制収容所に送るという大きな過ちを犯した事実を大いに反省し、1988年、日系人への強制収容の補償法が成立し、補償金の支払いが開始されました。

多くの紆余曲折の後に正義が遂行され、日系アメリカ人の名誉が回復された瞬間でした。

しかし最近の9月11日のニューヨークにおける同時テロ直後も、アラブ系住民であるというだけで理由なく差別を受けた人達が居たという事実を、筆者は直接知っています。このような感情的な行動は、冷静になれば正義を遂行できると信ずるアメリカ社会にあっても、なかなかなくなりません。

最近のサンディエゴ

最近のサンディエゴに日系アメリカ人がどのくらい居るのかはっきり知りません。日常のコミュニティー活動を通して、日系アメリカ人の友人が多数居ます。医者や、会社の社長・副社長や、弁護士や、ビジネスマン、また現在のチュラビスタ市の市長さん、シャーリー・ホートンさんも日系アメリカ女性です。

皆素晴らしい人達で、当然の事ながらしっかりと社会に根づいています。


前のページに戻る


日本語ホームページに戻る