Good Ole Boy の
「サンディエゴの歴史」

(2002年10月11日)

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オールド・タウンから現在のダウン・タウンへ

プレシディオ・ヒル、要砦が丘とオールド・タウン

1769年、大変な困難をおしてサンディエゴにたどり着いたユニぺロ・セラ(Junipero Serra)神父は、スペイン兵士達が造った要砦の中にカリフォルニアで最初の伝道所を造り、布教活動を始めました。 この要砦は、いまでもプレシディオ・ヒル、要砦が丘と呼ばれて、オールド・タウンの小高い丘の上に当時の伝道所を復元した観光スポットになっています。

オールド・タウンはちょうどこの丘の下になるわけですが、多分、当時は兵舎があり、その横に兵役から引退した兵士達が家族と共に住み始めた場所のようです。古い登記書によって、後に(1851)スペイン兵士の家族がその土地を売り渡した事も確認されています。


1820年代のオールドタウン(サンディエゴ歴史協会)

1977年にオールドタウンを整備すべくマスター・プランが造られて、現在のようにオールド・タウンが復元される事業が始まりましたが、以来多くの発掘作業が行われ、事実の特定がなされ始めました。 この発掘作業によって多くのスペイン系や現地インディアンの使った土器、1820年代の英国製、中国製の皿や食器などが発見されて、スペイン兵士と家族の生活がうらずけられました。

今のダウンタウンへ

1848年、アメリカ・メキシコ戦争の終結に伴い、カリフォルニアはメキシコからアメリカ合衆国に買い取られて、アメリカの領土になりました。それに伴い入植者が増え始めて、1850年2月、カリフォルニア州議会によってサンディエゴ郡が設置され、 当時の郡の総人口は、入植者798人、アメリカ・インディアン2,692人、合計3,490人と記録されています。 当時のサンディエゴ郡は現在と比べ物にならないくらい広く、現在の約10倍もの地域が含まれていました。今のサンディエゴ郡の人口は約280万人ですから、この150年間に800倍になったわけですね。

ちょうどこの頃、1850年3月27日に誕生したサンディエゴ市にもサンフランシスコ辺りからの人が増え始め、目先の利く人達がサンディエゴの港としての発展を先物買いして、今のダウンタウンのマーケット・ストリートの水際、 ハヤット・リージェンシー・ホテル、マリオット・ホテルそしてガスランプ・コーターの辺りに土地を買って街ずくりを始めました。

そんな人達の一人が、アロンゾ・ホートンというサンフランシスコから来た人で、800エーカーもの土地をガスランプ・コーターの辺りに買い、開発して街ずくりを始めました(1867)。 ホートンは今のコンベンション・センターのある辺りに波止場を造り、町の発展の糸口としました。今あるショッピング・モールのホートン・プラザは彼の開発した街の一部です。


1876年、5番街から波止場を望む(サンディエゴ歴史協会)

人口も増え、賭場も増え、かの有名なワイアット・アープも3軒の賭博場のオーナーでした。ワイアット・アープとは、あの有名な映画、「OK牧場の決闘」の保安官、ワイアット・アープのことですよ。 その頃は、ワイルド・ウエスト、即ちサンディエゴも含めて西部のほとんどは、東部から見ると未開の地だったのです。 ですから、ワイアット・アープ保安官でさえも、プロのギャンブラーだったのですね。当時はプロのギャンブラーは立派な職業だったそうです。


1869年ホートン・ホールの完成(サンディエゴ歴史協会)

ちょっと横道にそれましたが、街が大きくなって、ホートンさんは自分の土地を無償提供してシアター、ホートン・ホールを造りました(1869)。当時の事業家はなかなか素晴らしい事をしました。 更に彼はサンディエゴで最初の銀行を設立してオーナーになりました。1870年代から1880年代はサンディエゴのダウンタウンの素晴らしい発展の20年で、人口も4万人にもなったのです。


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