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Good Ole Boy の 「サンディエゴの歴史」
(2002年10月11日)

こんなに素晴らしいサンディエゴは誰が見つけた?
先住者
ヨーロッパ系の文明を持った人々がアメリカ大陸に入植してくる前は、もちろんそのずっと以前から人間が住んでいたわけです。今ではアメリカインディアンと一般的に呼びますが、アジア系のモンゴロイドを先祖に持つ多くの部族がいたはずです。
サンディエゴもその例外ではなく、クミアイ(Kumeyaay)と呼ぶ部族が広くすんでいたようです。特にサンディエゴ湾やミッション・ベイの辺りにミッション・バレーをぬって流れ込んでいるサンディエゴ川の北部、
今のラホヤからトーレパインの辺りには、イパイ(Ipai)と自称するクミアイ族が、
その南部には、今のスイートウォーター貯水池やレモングルーブの辺りまで、ティパイ(Tipai)と自称するクミアイ族が住んでいました。
他のインディアン部族と同じく農耕はせず、樫の木になるどんぐりを粉にした物を主食に、狩猟、採集、そしてアンチョビーなど小魚をとって暮らしていたようです。
考古学者が今のオールド・タウンの辺りの発掘調査を行うと、このような事実が分かるそうです。
残念ながら、アメリカ・インディアンには文字が発達しなかったために、詳しい事はなかなか分かりません。
スペイン人がサンディエゴに来るまでは、たぶんずっと長い間、このようなクミアイ・インディアンの生活があったはずです。
スペイン人の到来
コルテス率いるコンケスタドールが、1521年にアステカ王国を滅ぼしてニュー・スペインを造ってから、新大陸の探検と領土拡大が進み、ニュー・スペインの総督は多くの陸地経由や海洋経由での探索を行いました。
ニュー・スペインが行ったそんな探検隊の一つとして組織されのが、1542年、ファン・ロドリゲス・カブリヨの船による西海岸探検でした。
カブリヨ船長はもともとポルトガル人でしたが、コンケスタドールに参加してかなりの名士になったようです。そしてサンサルバドールとビクトリアという2隻の帆船を組織してニュー・スペイン、今のメキシコ西海岸を出発し、北上を始めました。
数ヶ月後、嵐を避けるために入り江に避難した場所が、今のポイント・ローマの東側で、ここは風がほとんどこない絶好の避難場所だったわけです。大きな湾は行きどまっていて、理想的な港に出来る地形でした。
カブリョ船長はこの場所をサンミグエル(San Miguel)と命名しました。まだサンディエゴではありません。
60年の後(1602年)、ニュー・スペインから次の探検隊長であるセバスチャン・ビスカイノが西海岸を北上し、カブリヨ船長の命名したサンミグエルの地に上陸して、サンディエゴと命名したのが現在まで続いている地名です。
今のサンディエゴがこんなに素晴らしい気候の地であっても、当時のスペイン王やニュー・スペイン総督はぜんぜん興味も無く、金銀や胡椒など貴重なスパイスを探してひたすらアジアを目指したのです。
本格的な入植の始まり
ニュー・スペインの活動の拡大に伴って布教活動も広がり、神父達がインディアンへの布教のために知られざる奥地にまで足を向け始めました。そしてその布教活動を護衛する目的で、スペインの軍隊が警護に当たりました。
従って、布教活動の拡大に合わせてスペインの国旗が翻り、領土が広がった面もあります。
そのうち、スペイン王の決定もあり、上カリフォルニアのモントレー(サンフランシスコの南60マイル)辺りにまで強力な勢力を張る決定がなされて、バハ・カリフォルニア半島からの勢力増強が始まりました。
このため、フランシスコ派の牧師のユニぺロ・セラ(Junipero Serra)神父がはるばると旅をして、サンディエゴの地にやって来て、軍は砦を築き、セラ神父は伝道所を作りました。
砦は現在のオールドタウンの東の丘の上に造られ、いまでもプレシディオ・ヒル、要砦が丘と呼ばれています。セラ神父はこのサンディエゴに造った最初の伝道所を基点に、モントレーまで20幾つもの伝道所を造り上げました。
この時に来た兵士達は家族と共に近くに住み、クミアイ・インディアンとも共存できて、今のオールド・タウンの基になったのです。
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