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Good Ole Boy の 「サンディエゴの歴史」
(2002年10月11日)

バルボア公園は誰が造った?
先見性
事業家、ホートンが、今のサンディエゴのダウンタウンに800エーカーの土地を手に入れて、街ずくりに乗り出したのが1867年のことです。これはアメリカ・メキシコ戦争で、カリフォルニアがアメリカの領土になってからたった19年後のことです。
驚くことに、その翌年、1868年にはすでに、サンディエゴ市がその建設中のダウンタウンの北側に広がる丘や谷を含んだ1,400エーカーという広い土地を、将来の公園にすべく決定していることです。
当時の市議会記録によると、1868年2月15日、当時の公園局(Park Board)が将来の市立公園(City Park)用に最初の320エーカーの指定地を決定。1868年4月29日、新しい公園局委員選定。1868年5月26日、更に広い土地を公園用地に指定。
当時の新聞、サンディエゴ・ユニオンの古い記事によると、その後市民の間から、こんなに広い土地をどうする気なんだとか、下水道工事費のために一部の土地を売ってしまえとか、色々な議論があったようです。
しかし市議会は公園に指定された土地を手放すことなく、ずっと保持してきました。素晴らしい先見性だと思います。
公園の発展
最初はシティー・パークと呼ばれていたこの指定地を、1910年、市の発案で何か良い名前を付けようとコンテストが行われ、現在の「バルボア・パーク」に改められました。この頃までにはかなりの規模で珍しい木や色々な植物が植えられて、徐々に公園の景観が整っていました。
サンディエゴ・ユニオンの古い記事によると、大規模なプレイ・グラウンド、遊園地を造る計画が動き出したと報道されています。そして何か大規模なフェアーを行おうと、多くのディスカッションが始まっています。
一方、1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されてから、カリフォルニア・ゴールド・ラッシュが始まり、必要な物資はアメリカ東海岸から現在のパナマまで海上輸送されて、パナマを陸上輸送し、太平洋岸からまたサンフランシスコまで海上輸送するルートが取られるようになりました。
この頃からパナマ運河の必要性が世界各国で叫ばれ始め、1869年からアメリカやフランスで独自の運河計画が提案されました。多くの困難と紆余曲折がありましたが、1914年、現在のパナマ運河が完成したのです。
サンディエゴは、パナマ運河を通過し太平洋を北上してからアメリカでの最初の港という位置にあり、この広大なバルボア・パークを舞台に、国際博覧会を行う計画が出来、準備が始まりました。後にはサンフランシスコも候補地としての名乗りをあげ、壮大な綱引きがありましたが、サンディエゴの熱意が勝って、
1915年、「サンディエゴ、パナマ・カリフォルニア博覧会」が開かれました。この博覧会は5年もかけて企画がなされ、後で気がついたサンフランシスコやロスアンジェルスなどから自分達の町に誘致しようとする挑戦を受けましたが、見事に成功させたサンディエゴの市民の先見性は大いに評価されるべきです。
 当時の植物園(サンディエゴ歴史協会)
 現在の植物園
1935年にはまた、「カリフォルニア・太平洋国際博覧会」も開催され、日本館も出館されました。日本は、これらの二つの博覧会に積極的に出展した数少ない国の一つです。以後設備も充実し、動物園も併設されて、今日の素晴らしい公園になりました。観光地として有名になったサンディエゴの、大きな財産の一つです。
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