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Good Ole Boy の 「サンディエゴの歴史」
(2002年11月15日)

バハ・カリフォルニアで、巡洋艦「浅間」が座礁
--- 第1時大戦中の出来事 ---
背景
この逸話は大きな歴史の流れから見るとほんの一こまに過ぎず、ほとんどの歴史書には登場しません。しかし当時、第一次世界大戦中には中立政策を取っていたアメリカにおいても、
サンディエゴの近辺で起こった戦争関連の事故であり、当時の地元紙、サンディエゴ・ユニオンも大きく取り扱いました。筆者も興味があり、何が起こったのか調べて見ました。
1914年、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦は、全世界の洋上をも巻き込んだ地球規模の大戦に発展しました。やがて日本もドイツに宣戦布告し、イギリスとの同盟関係にもとずいて
太平洋でのドイツ東洋艦隊の追討作戦を開始しました。そんな中で、巡洋艦浅間がバハ・カリフォルニアにまで索敵に来て、バハ・カリフォルニア半島の中ほどにある、
サン・バートローム湾(一名、タートル湾)で座礁して動けなくなってしまったのです。
巡洋艦「浅間」
幕末から明治維新、勝海舟により創設され発展してきた日本国海軍は、1890年代でも、未だ試行錯誤を続ける発展過程で、世界の列強に比し所有艦艇数では圧倒的に不利な状況でした。
当時の海軍は、広い海洋を高速で運行でき、重火器を装備した巡洋艦や巡洋戦艦を中心に更なる拡充を計画していました。
ちょうどその頃、イギリスのアームストロング社で建造されていた巡洋艦に買い手がついていず、さっそく購入契約をむすび買い入れたのがこの巡洋艦浅間です。排水量 9,700 トン、速力 21.5 ノット、
出力 18,000 馬力、全長 124.4 m、全幅 20.5 m、吃水 7.4 m、20.3 cm 砲 4 門 を備えた新鋭艦は1899年に竣工して任務に就きました。

巡洋艦浅間は、日本海軍の存在が一躍世界に認められることになった、1905年5月27日の日露戦争で、ロシヤ・バルチック艦隊を打ち破った日本海海戦に参加しました。
やがて第一次大戦に日本が参戦すると、ドイツ東洋艦隊と対峙すべく、南遣支隊の巡洋艦として太平洋を走り回ることになったのです。
太平洋で何が起こったのか
第一次大戦が始まった当時、ドイツ東洋艦隊は租借地である青島を根拠地にしていましたが、1914年8月23日の日本の参戦を聞くと、根拠地を抜け出して南太平洋に展開しました。
浅間が所属する南遣支隊も、このドイツ艦隊を追って南太平洋に展開しました。当初3隻で青島を出たドイツ艦隊に、メキシコ沿岸にいた2隻のドイツ戦艦が合流しました。その1隻、ドレスデンは東海岸のメキシコ湾に、
もう1隻のライプチヒは西海岸のマザトランにいて、プエルト・サン・バートローム(一名、タートル湾)を経由して、本隊に合流しました。このような2隻のドイツ戦艦の行動が、
後に巡洋艦浅間がバハ・カリフォルニアにまで索敵に来た伏線になっています。
これらドイツ東洋艦隊の主力は1914年12月、フォークランド付近でイギリス艦隊に撃沈されましたが、この海戦で生き延びた軽巡洋艦ドレスデンが、この時点では逃げ延びたのです。
サン・バートローム湾での座礁
このような背景があって、逃げ延びたドイツ巡洋艦ドレスデンが、北太平洋に戻って、メキシコやアメリカ沿岸を荒らしまわることを警戒した南遣支隊の浅間、遣米支隊の出雲と肥前を含めた日本艦隊は、メキシコ沿岸に戻って来ました。
こんな日本艦隊に1915年1月19日、逃げているドレスデンがメキシコ、マザトランの辺りで石炭の補給を受けるらしい、という情報が入りました。出雲で艦隊の指揮を執っていた森山少将(当時)は、浅間艦長、吉岡海軍大佐(当時)にサン・バートローム湾を基地に、
近辺のパトロールを命じました。
メキシコのマグダレーナ湾やマザトラン港を調べた後、浅間はサン・バートローム湾で石炭の供給を受けるべく、1915年1月31日、湾に舳先を進めました。しかし不幸にも、午後1時52分、湾の入り口で海面下に隠れ、海図にも載っていない岩に乗り上げてしまったのです。
座礁してから測量したと見られる当時の船の周りの水深を見ると、最も浅いところで 4 m 程度です。浅間の公式資料による吃水は 7.4 m ですから、潮の干満にもよりますが、3 m くらいは船体が岩礁に食い込んでしまったはずです。
サン・バートローム湾近辺の捜索を浅間に命じた後、旗艦出雲はサン・フランシスコ沖でパトロールを行っていて、座礁した浅間の周りに僚船はいません。座礁の結果、船の前方5分の1くらいを残してエンジン室やボイラー室がすっぽり浸水し、
エンジンはもとより発電機も止まり、通信不能になってしまったのです。当時このサン・バートローム湾の辺りに人はほとんど住んでいず、700人もの乗組員に与える飲料水の確保のあてもありません。幸運にも、夕方石炭を運んで来たイギリスの補給船に発見され、
浅間の窮状を知った石炭船は、すぐさま一番近いサンディエゴ港に向かい、2月2日の夕方ポイント・ローマにつきました。浅間の座礁が、出雲で指揮を執っている森山少将に知らされたことはゆうまでもありません。
しかしまた人の口に戸は建てられず、石炭船の船員の口から事故の模様がサンディエゴの人々にリークされ、翌日サンディエゴ・ユニオンのトップ記事になりました。
数日後にはサンディエゴ港から、アメリカ太平洋艦隊のハワード大将を載せた重巡洋艦サンディエゴも現場に到着しました。そしてアメリカ側からの救出援助の申し出がありましたが、中立国の義務として、万一救出が成功しても巡洋艦浅間とその乗組員はアメリカに抑留されて戦闘に参加することが許されなくなります。
当然の事ながら、浅間の吉岡艦長はアメリカの救助を断りました。
救助作業
1915年2月12日の朝になって森山少将を乗せた出雲が現場に到着し、自ら事故の規模を確認した少将は、工作船とサルベージ船の緊急派遣を日本に要請しました。
3月24日になって、待ちに待った工作船、関東が横須賀から到着し、横須賀海軍造船所の責任者や主任技師、そして大勢の工員が一緒でした。まず船体を軽くして浮かび易くする為に、1,200 トンもの設備を取り外しました。
そして大きく口を開けた船底の裂け目を出来るだけふさいで、セメントを流し込み、海水の侵入を出来るだけ止めました。それでも浸入する海水を何台ものポンプで汲み出しながら、やっと浮力を回復するまでにたどり着きました。
必死の救助努力の5ヶ月がたった8月21日、巡洋艦浅間は自力で浮力を回復しました。それから2日後、浅間は工作船関東と巡洋艦千歳に付き添われて、カナダのブリティッシ・コロンビア州、エスキモルトにある同盟国イギリス海軍基地に向かって航海を始めました。
エスキモルト基地に着いた浅間は、日本とカナダの造船技師たちの必死の作業で更に船底の穴をふさぎ、やっと12月18日、横須賀の海軍基地に帰りついたのです。不名誉な沈没を免れました。
アメリカでの報道合戦
最初に、日本国海軍巡洋艦、浅間の座礁を報じたサンディエゴ・ユニオンは、その後も活発に成り行きを報じましたが、おおむね、その報道姿勢は事実に立脚した公正な報道でした。
それに比べて、ロス・アンジェルス・タイムの報道は正確さを欠き、時には、日本が悪意と邪悪な意図を持って、アメリカの足元に海軍基地を築く為の策謀であるとすら書いています。この報道はワシントンの有力新聞にも影響を与えたりして、時の政略を反映した政争の道具に使われた感があります。
当時のアメリカは中立国として振る舞いましたが、その社会の底辺で、筆者の印象では、かっての黄禍論(Yellow Peril)をもほうふつとさせる動きもあったようにみえます。
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